【86】これが取り調べだ!(怒)
〈前回から続く〉
■ある朝、家に刑事が
2001年1月6日の朝、守大助さんが彼女(同僚で婚約者の看護士)と暮らすアパートに、宮城県警の2人の刑事がやって来ました。
“A子ちゃんの急変について、北陵クリニックの職員に順番に話を聞いているので来て欲しい”
と言う刑事の言葉に、大助さんは何の不信感も抱かず、警察の車に乗って県警本部に向かいます(その後、泉警察署に移送)。
県警は父・勝男さんの職場でもあり、大助さんは警察に対して親近感を持っていました。むしろ捜査に協力しようという気持ちだったといいます。
しかし取調室に入ったとたんに刑事は、
“おまえがやったんだ”
“A子ちゃんの急変の原因を知っているのはお前だ”
“マスキュラックス(筋弛緩剤の商品名)だな” と、
大声で怒鳴りはじめます。
最初は何のことだかまったく分からなかった大助さんは、
自分がありもしない事件の犯人に間違われていることが次第にわかり、
“何もやっていない” と否認を続けますが、まったく聞き入れられません。
朝8時30分頃から始まった取り調べは夜8時過ぎまで続き、ついに大助さんは耐えられなくなりました。
そして刑事に誘導されるままに、A子さんの点滴にマスキュラックスを混入したというウソの自白をしてしまいます。
■お前が否認するなら彼女を逮捕する
大助さんが自白に追い込まれる決定打となったのが、
“お前じゃなければ(婚約者の)彼女を逮捕する” という脅し。
否認する被疑者に対して、家族などの大切な人をネタにして自白を迫るのは、取り調べの常套手段です。
大助さんは自白時の心情を、このように振り返っています。
「今になれば、どんな形であれ、認めてしまうことは恐ろしいことだと判断できますが、当時は怒鳴られ、話を聞いてもらえないことに耐えられなくなり、「楽になりたい」とばかり考え、そのあとどうなるか、なんて考えられなかった。その場、その時から「楽になりたい」の一心でした。」(ジャーナリスト・山口正紀さんに宛てた手紙より)
〈手紙の全文はこちらの本に収録〉
事件の全貌と冤罪のポイントを知る必読書。阿部泰雄弁護団長、警察の鑑定の誤りを指摘した化学分析の第一人者・志田保夫博士、A子さんの病状がミトコンドリア病メラスであることを明らかにした池田正行医師、“何故やってもいない犯行を自白するのか?”という、恐らく多くの人が抱いている疑問に明確に答える供述心理学鑑定の第一人者・浜田寿美男教授、そして守大助さん本人など“北陵クリニック事件のオールキャスト”による渾身の1冊です。
ヒドい取り調べを受けながらも、
大助さんは父の職場である宮城県警を信じていました。
“調べ直してくれれば自分の疑いは晴れるだろう” と思うと同時に、
“刑事さんがここまで言うのなら、もしかすると自分の処置にミスがあったのかもしれない” と感じたといいます。
A子さんの急変は2000年10月31日と、逮捕の3ヵ月近く前。そんな前の日の自分の一挙手一投足を、正確に覚えていられるでしょうか?
外部の情報が遮断された取調室という密室の中、朝から晩まで10時間以上にわたって刑事に責め立てられれば “ひょっとして俺は何かやったのかもしれない” と、ウソの自白をしてしまうのも無理はありません。
■“安らかに死刑を受けろ”
大助さんは1月9日に自白を撤回。A子さん以外の4人の急変患者についても逮捕・起訴が繰り返されますが、現在に至るまで “やっていない” と否認を貫いています。
転機になったのは、後に弁護団長となる阿部泰雄弁護士が接見したことでした。
阿部弁護士は大助さんと初対面した時の様子を、このように振り返ります。
「はじめて守君に会ったのは、逮捕から2日後の2001年1月8日。拘留されている泉警察署で接見しました。守君ほとんど眠れていない様子で、“自分がやりました”と言っていました。翌9日も接見して、“やったなら、どんなふうに筋弛緩剤を入れたんだ?”と質問をしても、守君はほとんど具体的に答えられませんでした。こうして会話を重ねるうちに “ああ、オレはやっぱりやっていないんだ…”と、マインドコントロールから覚めて、そこからは完全に否認に転じたんです」
否認に転じた大助さんへの取り調べは、さらに苛烈を極めました。
大助さんは拘留されている間の様子を克明に日記に残しており、出版もされました。
現在は古本でしか手に入りませんが、ぜひ1冊購入してください。
発行は逮捕された2001年。あまりにもムゴい取り調べの様子に、最後まで読むのはツライ…でもリアルな出来事を知っていただくためにも、多くの方に読んでいただきたいです。
本の中から、取り調べ時に受けたという暴言をいくつか抜粋して紹介します。
「ふざけるな!何が『やってません!黙秘します!!』だ。なめてるのか!」
「私が殺しましたという調書にサインしろ。やすらかに死刑を受けろ」
「警察というものは、ウソをついたり、駆け引きしたり、ずるいことは本当にしない。お前のお父さんの仕事なんだぞ!!」
「お前は人間以下のクズだ!!お前はここ(取調室)にいて守られているからいいが、家族、ユキ(婚約者・仮名)は大変なんだぞ!!わかってるのか!!」
「裁判でお前がやってないと言ってもこちらの方が正しいんだ。お前は有罪なんだ!」
「指紋とっただろ!マスキュラックス(筋弛緩剤)からすべて、出ているんだからな。こちらは証拠がたくさんあるから弁護士なんてビックリするぞ!もうウソつくな。人間以下。死ね」
「お前もふざけてるなら、父親もふざけてる。よく仕事に行ってるな。恥さらし親子だ」
「お前が(筋弛緩剤を)入れた所、みんな見ているんだ!」
「お前は本当に宮城県警と闘うのだな。弁護人の金だれが払ってるんだ!ふざけるな!」
警察だけでなく、大助さんを起訴した検察の取り調べもヒドいものでした。
「もうゲームはやめろ。オレ(検事)を信じろ。国家なんだ。お前を更生させてやる」
「殺人者」「人殺し」(2月10日、検事に1910回こう言われた)
「死刑なんだ!急に足場がなくなるんだ!オレ(検事)と裁判官が絶対死刑にしてやる」
以上、ごく一部を紹介しました。
刑事が言った、大助さんが筋弛緩剤を入れたのを見たという目撃証言はありません。
大助さんの指紋が付いた筋弛緩剤の容器も、裁判には提出されていません。
繰り返し書いてきましたが、県警が急変患者のカルテを押収したのは、逮捕から10日も後でした。基本的な裏付け捜査も行わず、証拠もない中、ひたすら言葉の暴力で自白させようとしていた様子が伺い知れます。
宮城県警も仙台地検も、もはや大助さんが無実かどうかなど、関係なかったのでしょう。逮捕・起訴した自分たちのメンツを守るために、とにかく犯人にデッチ上げる必要があったのでしょう。
“恐怖の点滴殺人魔” とマスメディアがセンセーショナルに煽っている裏で、警察・検察はこのような蛮行を重ねていたのです。
もっともヒドい取り調べを行った清水という刑事は法廷で “違法な取り調べはやっていない。守大助が自分から自白した” “涙を流して自分から正座して反省文を書いた”などとシラバックレタそうです。
この後、大助さんは拘置所に移され、4年6ヵ月にわたって接見禁止に置かれます。弁護士以外、家族にも友人にも会えない状態です。
日本の刑事司法は国連からも “中世レベル” と批判されましたが、これが現実です。
そんな絶望的な状況の中、大助さんを支えたのは弁護団でした。土日以外はほぼ1日も欠かさず、阿部弁護団長はじめ弁護士の誰かが、必ずはげましに来てくれたそうです。
“あの激励がなかったら、今日まで闘えていなかったかもしれない”と、昨年面会した時に大助さんは語っていました。
大阪の支援者が描いた一枚。大助さんは患者さんの人気も高く、愛されていたといいます。こんなほのぼのしたひとときを、再び大助さんに!
【85】守大助さんの父・勝男さんの訴え
守大助さんのお父さん・守勝男さんは、大助さんが逮捕された2001年1月当時、宮城県警の警部補で交通捜査を担当していました。つまり大助さんは、お父さんの勤め先に捕まったのです(交通部と捜査部、所属部署は異なりますが)。勝男さんは息子の無実を信じ、定年まで5年残っていた勤めを全うしました。
当初は確固たる証拠を基に逮捕が行われたと思っていた、という勝男さん。しかし自分なりに関係者を訪ね歩いて情報を集めるにつれて、疑問を抱くようになったと言います。
“一体何を根拠に息子を逮捕したのか?” と捜査幹部を問いつめたところ、“新聞を見ていただければわかるでしょう。最終的には裁判所が判断することです”。と、真摯に捜査に取り組んでいるとは思えない答えが帰ってきたそうです。
このブログでも度々書いてきましたが、実際に宮城県警の捜査は “真摯” とは程遠いものでした。少し長くなりますが、今一度経過を振り返ってみます。
発端は大助さんが勤務する北陵クリニックで、
患者さんの急変(急に具合が悪くなること)が急増したことでした。1999年までは年間10件程度だったのが、2000年には19件発生しています。
大助さんが准看護士として、クリニックで働きはじめたのは99年の2月。家庭を持つ女性が多かった看護チームの中で、独身で時間の融通が効き、患者さんの評判も良く、医師にも信頼されていた大助さんは夜勤も積極的に引き受け、必然的に点滴などに従事する機会が多くなりました。
事件発生当時マスメディアは、“急変の現場には、必ずと言ってよいほど守大助がいた”などと報じましたが、背景となる事実を無視し、印象だけに頼った悪質な報道としか言いようがありません。
急変が増えた原因もハッキリしています。当時クリニックはウリにしていたFESという先端医療が暗礁に乗り上げ、(FESについては機会があったら改めて書きます)14億円近い負債を抱えていました。リストラによって、薬剤師や救急措置ができる医師も退職していました。
クリニックは赤字を少しでも緩和するため、19床あったベッドを常に満杯にしようと、なりふり構わず患者さんを受け入れ始めます。老人ホームからの終末期の患者さんも多かったといいます。
マトモな医療行為ができない状況で具合の悪い患者さんを受け入れれば、急変が多発するのはアタリマエです。急変の原因も病気や抗生物質の副作用によるものと、担当医師がカルテに明記しています。筋弛緩剤など、まったく関係していないのです。
大助さんが筋弛緩剤を投与した “とされている” 患者さんの1人(45歳の男性)を担当した医師は、テレビ番組のインタビューで、このように答えています。
「急変の原因はミノマイシン(抗生物質の一種)の副作用だと、いくら説明しても、警察・検察は“いや、筋弛緩剤だ” の一点張りで、自分の意見を全く聞き入れようとしなかった」
真っ先に尊重すべき専門医の言葉を無視してまで、“守大助=筋弛緩剤の犯人” という結論ありきで捜査していた様子が伺い知れます。
ただし1人だけ、急変の原因がハッキリしない患者さんがいました。2000年10月に緊急入院した、当時小学校6年生のA子さんです。
A子さんは学校で突然気分が悪くなり、腹痛と嘔吐がひどくなったためクリニックを受診。大助さんが立ち会って点滴を始めた5分後ぐらいから、モノが二重に見える、呂律が回らないといった症状が現れ、30分後には意識レベルが低下し心肺停止に。急性脳症により、18年を経た現在も意識が戻らない状態が続いています。
現在は急性脳症の正体が「ミトコンドリア病メラス」という難病であることが、ほぼ明らかになっています(国の難病にも指定されています)。
しかし2001年当時はこの病気に関する情報がほとんどなく、クリニックでも後に搬送された仙台市立病院でも、原因を突き止められませんでした。
“原因不明の急変があった”。
北陵クリニックのオーナー・半田康延・東北大学教授は、同僚の舟山眞人・法医学教授に相談します。この数年前「大阪愛犬家連続殺人事件」という、筋弛緩剤を使った事件がマスメディアを賑わせました。
“北陵クリニックでも、筋弛緩剤を使った犯行が行われてるとしたら…”勝手に想像した舟山教授は、宮城県警に報告します。
“それは大変だ! 点滴に立ち会っていた守大助という准看護師がアヤシイ!奴が犯人に違いない!”と、色めき立った県警は2001年1月6日、大助さんを逮捕。患者さんのカルテを押収したのは、それから10日も後でした。
舟山教授は決して悪くありません。
警察に情報提供するのは法医学教授として当然です。やはり悪いのは宮城県警。本来ならばまずカルテを取り寄せ、医師に聞き取りを行って、本当に筋弛緩剤による犯罪なのか裏を取る所から始めるのが基本中の基本でしょう。そんな基本的な裏付け捜査さえ行わず逮捕に至った県警の、明らかな “捜査過誤” です。
さらに県警は逮捕をマスコミに大々的に発表。
A子さん以外の急変も次々に大助さんによる犯行と決め付け、連続点滴事件をデッチ上げます。
マスメディアも問題アリです。プロの記者なら、冷静に調べれば県警の発表がアヤシイことはわかるはず…。
にもかかわらず、朝日新聞を筆頭とするマスメディアは県警のリークを鵜呑みにし、センセーショナルな報道合戦が始まります。
ここまで来たら、もう後戻りできません。
自分たちのメンツを守るためにも、守大助=犯人という既成事実をデッチ上げて突っ走るしかありません。
「北陵クリニック事件」というのは、暴走警察と無能なマスメディアが合作で作り上げた、幻の事件だったのです。続いて、守大助さんが受けた取り調べについて書いてみます。
〈次回へ続く〉
10月29日の支援者会議で訴える守勝男さん。右はお母さんの祐子さん。
ヘタな写真で恐縮です。
【84】12月12日「冤罪根絶の国会一日行動」やります!
このブログで何回か紹介してきましたが、
「守大助さん東京の会」の母体は「日本国民救援会」という人権団体です。
(今年で創立90年を迎えました。こちらについては改めて書きたいと思います)
11月12日現在、その救援会が支援する4つの再審事件が、
最高裁判所で再審開始を求めて闘っています。
・守大助さんの「北陵クリニック事件」
・原口アヤ子さんの「大崎事件」
・西山美香さんの「湖東記念病院事件」
・袴田巖さんの「袴田事件」
再審事件以外では勝又拓哉さんの「今市事件」も東京高裁でのトンデモ判決を受け、
闘いの舞台を最高裁に移しています。
〈今市事件の概要とトンデモ判決についてはこちら〉
そこで、この5事件の支援者が集まって一日行動を開催することになりました。
下のチラシで場所やスケジュールを参照の上、ぜひご参加ください!
もしかすると12月12日・水曜日という日程が気になるかもしれません。
土日開催でないのは、どうして?
それは袴田巖さんの死刑が確定した日にちなんだからです。
〈袴田事件のこれまで〉
1966(昭和41)年6月30日:事件発生→8月30日:袴田巖さん逮捕
1968(昭和43)年9月11日:死刑判決(静岡地裁)
1976(昭和51)年5月18日:袴田さんの控訴棄却(東京高裁)
1980(昭和55)年12月12日:袴田さんの上告棄却・死刑確定(最高裁)
2008年3月24日:第一次再審請求棄却→翌月・第二次再審請求
2014年3月27日:再審開始決定(静岡地裁)→検察が抗告
2018年6月11日:再審開始決定を取り消し(東京高裁)→闘いは最高裁へ
検察は最高裁に意見書を提出し “袴田さんの再収監が必要”と主張しています。
この意見書は地方検察庁や高検でなく「最高検察庁」が出したもの。
つまり検察のトップ直々に“袴田さんを死刑台に連れ戻せ” と言っているのです。
もはや狂気の沙汰、絶対に許すことはできません!
〈袴田さんについても、以前ちょっと書きました〉
【63】袴田巖さんと守大助さん〜トータルで見れば無実は明らか〜 - Free大助!
12月12日は正午から、ボクシング関係者はじめ有志による、
「袴田さん再収監を許さないアピール行動」が予定されています。
午後3時からの「最高裁係属事件の勝利をめざす院内集会」では、
新屋達之・福岡大学法学部教授の講演が予定されています。
新屋教授は再審の最新事情(駄洒落ではない)に詳しく、
守大助さんの再審請求において意見書をいただいたこともあります。
12月12日を私たち市民のチカラで日本の司法を変えていく、
大きな一歩にしたいと思います。
司法にバカなマネをさせないために、1人ひとりのチカラを結集させる時です。
無料でご参加いただけます!
皆さんのご参加を、お待ちしています!!
【83】最高裁は誰のために…?
10月29日、守大助さんの再審開始を目指して、
最高裁判所に要請に行ってきました。
〈以前の様子はこちら〉
【57】最高裁判所に要請、行ってきました。 - Free大助!
普段は他の事件と共同で取り組んでいますが、
今回はじめて「北陵クリニック事件」単独での要請を実施。
北海道から高知まで、各地の大助さんを支援する会から約40名が駆けつけました。
宮城からはご両親も参加し、お母様の守祐子さんは、
“母さん、雪かきして帰るね”。2001年1月5日、これが塀の外で息子と交わした最後の言葉でした。一貫して無実を訴える息子を誇りに思います。林景一裁判長は息子の真実の叫びを聴いてください”。と訴えました。
要請は最高裁の裏側にある西門を入った、小さな部屋で行われます。
コの字形に机が並んだ部屋に入れるのは17名と決まっているため、
ご両親や遠くから来た人を優先し、各会から1〜2名ずつに絞らなければなりません。
入れなかった人は外で待機です。
対応してくれる最高裁のスタッフは事務方の1名。
手元を見ると確かにメモは取っていますが、
1人ひとりが訴えた内容がどこまで裁判官に伝わるのか…。
さらに事務方→調査官→裁判官と伝言ゲームのように伝えられるらしく、
そこでどんなやり取りが行われているかもブラックボックス。
支援者に限らず、弁護団に対しても似たような対応だそうです。
なぜ当事者どうしがコンタクトできないのか、
最高裁の裁判官は、我々の “謁見” が許されない雲の上の存在なのでしょうか。
“調査官や裁判官と飲みトモダチになって話せないかなあ” と、
支援者の1人は言いました。まったくその通りです。
法律というのは本来、私たちの暮らしと人権を守るためにあり、
そこで最大の責任を担うのが最高裁のハズ。
血の通った人として “最高” の仕事をしていただかなければ困ります。
しかし嘆いていてもどうにもなりません。
最高裁を絶対に振り向かせるように、声を上げ続けましょう!!
遠くは北海道や四国から、各地から集まった約40人。後列左から4人目が守祐子さん、5番目が勝男さん。右端は「布川事件」の桜井昌司さん、ちょっとヨソ見していますが(笑)。 (写真:C.Matsuyama)
【82】冤罪撲滅に闘う国会議員、藤野保史さん〈後編〉
藤野保史議員を講師に招いての学習会
『今こそ学ぼう!!再審の最前線』の後編をお届けします。
※文章は録音を基に編集の上、作成しています。文責は「守大助さん東京の会」事務局長にあります。
〈前編から続く〉
■再審をめぐる海外の状況
ここで海外における再審をめぐる状況を紹介したいと思います。これにあたっては九州再審弁護団連絡会の本『緊急提言!刑事再審法改正と国会の責任』(下記リンク)を読ませていただき、大変参考になりました。それぞれの国もいろいろな問題があったわけですが、重大な冤罪事件の発生をきっかけに制度を見直しているところが、日本と大きく違います。
アメリカでは州ごとに制度が作られていて、たとえばノースカロライナ州では1984年に起きた2件のレイプ冤罪事件が制度の改正に結びつきました。2002年11月に州の最高裁長官だったビバリー・レイクさんが諮問委員会を立ち上げて、この2件をはじめ何故冤罪が起きたのか、原因究明と再発防止策に取り組みました。委員会には裁判官、弁護士、検察官、警察官、大学教授、被害者団体、支援団体、NPOなど幅広い人々が参加して、2年にわたって公開で議論が行われました。これに基づいて法改正が行われ、重大事件における検察の手持ち証拠の全面開示が定められたということです。
2006年には州に「冤罪審査委員会」が設立、07年には目撃証言の取扱いの見直し、取り調べの録音録画、DNAの保存、被告人側からのアクセスの保証といったものが、法制度として作られました。
フランスもかつては日本と似た状況でしたが、死刑執行後に冤罪が明らかになった事件が続いたことなどを契機に、制度を見直そうという機運が高まりました。大きな転機になったのは、2014年に超党派の国会議員による調査団が結成されたことです。その報告書によると、1989年から2013年の間に3358件の再審請求が行われ、そのうち再審が認められたのは84件、無罪を勝ち取れたのは51件でした。わずか1.5%とあまりにも狭い再審の門戸が明らかにあり、制度の改革へとつながりました。
九州の再審事件を例に、ポイントがよく整理された1冊です。再審制度のルーツはフランスだった!など、海外の事情もよくわかります。
■日本が見習いたいカナダの事例
カナダの事例は、非常に示唆に富んでいると感じています。1971年に『マーシャル事件』が起きます。マーシャルという青年が11年投獄された後、真犯人が現れたという事件です。これを受けて州政府が王立委員会を設け、2年の調査の末1500ページにわたる報告書を作り、検察官に対する事前の証拠開示を実現する契機になりました。
1つの冤罪事件をきっかけにここまでやっているカナダの取り組みに、とても感銘を受けました。他方日本では1910年代から2000年代の間に161件もの冤罪が明らかになり、死刑再審が4件も出ているにもかかわらず、検証が全く行われていません。
カナダでは当初、マーシャル委員会への反発が強かったそうです。マスコミが魔女狩りだと批判したり、裁判所や検察が調査に協力しないこともあったのですが、それらの困難を乗り越えて報告書を完成させました。当初、証拠開示に対して検察は “そんなバカなことができるか” と笑い飛ばしたそうです。しかし報告書が1989年に出され、93年に最高裁が検察に証拠の全面開示を求め、現在ではカナダの刑事司法に欠かすことのできない手続きになっているということです。1991年には最高裁が “検察の手中にある証拠は有罪にするための検察の財産ではなく、正義がなされるために用いられる公共の財団だ” という判決を下しました。全くその通りです。
この4月7日に日弁連の『法制化に向けて〜再審における証拠開示シンポジウム』が開催されました。私は国会で行けなかったのですが、議事録を読ませていただきますとカナダと同じようなやり取りがありました。袴田事件・弁護団の戸舘圭之弁護士の発言を紹介します。
“再審請求が地裁から高裁に上がって、三者協議というかたちで定期的に裁判官や検察官と顔をつき合わせるわけです。そのときに本当に感じるのは、同じ人間でありながら、同じ日本語の話者でありながら、どうしてここまで言葉が通じないのだろうという徒労感です。とりわけ証拠開示の問題などを話すと検察官とはまともな議論にもなりませんし、全く話がかみ合わない。例えば、私などは、「馬鹿の一つ覚え」のように再審のそもそも論とか、無辜の不処罰とか、わりと平気で言ったりするタイプですが、そんなことを言っても暖簾に腕押しといいますか、鼻で笑うような、「おまえ何言ってんだよ、馬鹿」みたいな顔を検察官は平気でしてきます。”
現時点では日本の検察官はこういう考えかもしれません。しかしどんな困難も粘り強く切り開く。実際に制度を作ってしまえば、笑っていた相手も変わると思います。決してあきらめずに頑張ったというのが、カナダの事例最大の教訓だと感じています。
上記シンポジウムのパネルディスカッションの全文は、こちらに収録!証拠開示にトピックを絞り、各再審事件の事例を紹介。平易な文章で読みやすく、初めての方にもおすすめです。
■政治家と市民が力を合わせて
今本当に大切なのは、なぜ冤罪が起きたのかを検証していくことだと思います。この点を国会で追求しますと、上川法務大臣は “4者協議をやっています。最高裁、法務省、警察、日弁連の4者で検討しています” と言うのです。日弁連以外は冤罪を起こしてきた当事者ですね。そうした方がいくら協議をやっていますと言っても、力及ばずと言わざるを得ません。海外のように、いろいろな立場の方を入れて検証をすべきです。しかも議事録はなく、会議の内容は非公表です。
日弁連のワーキンググループも2011年1月に意見書を出して、検証のための第三者機関を国会に設けるべきだと提言しています。その直後に東日本大震災が発生し、原発の事故調査委員会が国会に設置されました。衆議院・参議院の全議員が賛成して設置されたはじめての委員会で、活動期間は短かったのですが、外部から専門家が入って7つの提言を出してくださいました。その提言がなかなか実行されないことは問題ですが、調査委員会が大きな役割を果たしたことは確かです。こうした事例を手本に、再審問題においても法改正につながるような仕組みを作ることができると思います。
すでに衆議院の法務委員会に再審問題の小委員会が作られましたし、弁護士の中には与野党の議員に働きかけてくださる方もいらっしゃいます。そのおかげで再審問題は重要だという認識が広まりつつあります。具体的な動きはこれからですが、各党とも問題意識は持っているので、さらに前に進める動きを作っていきたいと思います。
冤罪をなくし、再審制度の改革に向けて、国会でも力を尽くしたいと思います。同時に世論を換気することと、皆さんの運動が決定的な役割を担っていると思います。私も皆さんと引き続き力を合わせて、何としても状況を良い方向に変えていくという決意を申し上げまして、お話を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
〈了〉
【81】冤罪撲滅に闘う国会議員、藤野保史さん〈前編〉
冤罪のない社会や「再審制度」の改革に向けて、国会議員も奮闘しています。
「守大助さん東京の会」の母体である「日本国民救援会・東京都本部」は、衆議院法務委員会で活躍する藤野保史・衆議院議員(日本共産党)を招いて、『今こそ学ぼう!!再審の最前線』と題した学習会を開催しました。
9月15日と少し前の学習会になりますが、1人でも多くの方に読んでいただきたと思い、講演の内容を2回に分けて紹介します。
※文章は録音を基に編集の上、作成しています。文責は「守大助さん東京の会」事務局長にあります。
■今、このタイミングで再審について語る意味
こんにちは。藤野保史(やすふみ)です。冤罪や再審の問題は、多くの国民にとっては身近ではないと思われるかもしれませんが、決して無関係でありません。私自身も周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』を観て以来、電車に乗るたびに緊張しています。
現在「国民救援会」の支援事件だけで、5つの再審事件(※2018年9月15日現在)が最高裁判所で争われています。最高裁に5つも同時に係属しているというのは、戦後初めてだと思います。これは異例の事態であると同時に、警察、検察の在り方や、裁判にかかわる当事者すべての矛盾の現れではないかと感じています。刑事司法の問題が、表面化しているわけです。
他方でマスコミが冤罪や再審について取り上げる機会も多くなっており、国民的な議論が可能な状況になっていると思います。社会の関心が高まりつつあるというタイミングで学習会を持てたのはたいへん重要なことで、これを機に私たち一人ひとりの人権や人生がかかった問題として、考えるきっかけにできたらと思っています。
※大崎事件、湖東記念病院事件、袴田事件、北陵クリニック事件、松橋事件。うち松橋事件は11月10日に再審開始決定が確定!他の再審事件では飯塚事件、恵庭OL事件も最高裁に係属中。
■冤罪のハジマリは“絶対に落とす”取り調べ
日弁連の調査によると、1910年代から2000年代までに161件もの冤罪事件が発生しています。これは氷山の一角と言われており、表面化した事件だけで160件以上もあることになります。
その中で再審無罪を勝ち取ったのは、わずか10数件。たとえば『吉田巌窟王事件』は事件発生(1913年)から無罪の確定(1963年)まで50年もかかっています。本当に長い期間闘って、ようやく無罪を勝ち取れたわけです。私たちは筆舌に尽くし難い経験から学び、再審制度を変えていかなければならないと、強く感じています。
冤罪の原因としてよく上げられるのが、取り調べにおける自白の強要です。たとえば愛媛県警が使っていた『被疑者取調べ要項』というマニュアルの存在が明るみになり、以下のようなことが書かれています。
“粘りと執念を持って「絶対に落とす」という気迫が必要”
“調べ室に入ったら自供させるまで出るな”
“否認被疑者は朝から晩まで調べ室に出して調べよ(被疑者を弱らせる意味もある)”。
〈全文は下記リンク参照〉
【20】これは言わずにいられない〜徳島県警の誤認逮捕〜 - Free大助!
これを書いた教官は、後任に渡したということも国会で認めています。こうしたことが連綿と教え込まれていたというわけで、もはや警察官個人の問題ではなく、組織として虚偽自白を引き出す取り調べが行われててきた実態を垣間みることができます。
■3度も再審開始が出た大崎事件
今から50年以上前、すでに国会では再審に関する議論が行われていました。衆議院法務委員会・再審制度調査小委員会の議事録(1962年3月)から、日弁連人権擁護委員会の副委員長をされていた後藤信夫弁護士の発言を紹介したいと思います。
“申すまでもなく、一度確定した判決をまたやり直すという手続きは、これは軽々しく許すべきではございません。いわゆる法的安定性の保持ということはもとより大切ではございますけれども、その反面におきまして、一たび確定した判決といえども、もし冤罪のおそれがあるならば、高い人道的視点から、また基本的人権の尊重という趣旨から、できる限り救済の道を開きまして、誤りは誤りとしていさぎよくこれを是正し、無実の者をして冤罪に泣くことなからしむるということは絶対に必要でございます。”
一度裁判所が下した判決は確かに重いものの、冤罪の可能性があるなら速やかに救済すべきという観点から、再審制度は作られています。私が国会で質問をしたら、上川陽子法務大臣も再審制度は無実の人を救うための非常救済手段だと答えました。
私は具体例として大崎事件を取り上げて質問させていただいたので、この事件を中心に話したいと想います。事件は1979年10月、鹿児島県の大崎町で発生し、原口アヤ子さんが元夫と2人の義弟と共謀して、被害者を殺害し遺体を遺棄したとされています。アヤ子さんは一貫して無実を主張しましたが、他の3人の自白が証拠とされて4人全員が有罪になりました。しかし自白以外に客観的な証拠というものがないという事件です。
原口さんは“あたいはやっちょらん”と、10年の刑に服した後ずっと再審を求めて闘っています。すでに91歳に達していて、本当に直ちに救済しなければならない事件です。大崎事件は再審開始決定を3回(※)も受けているという意味でも、極めて異例です。再審は一度確定した判決を覆す重い判断です。その重い判断が3度も下されているわけで、どれだけ確定判決がおかしいかを示していると思います。
■大崎事件、再審の軌跡
〈第1次再審〉
1995年4月 原口アヤ子さんが再審請求
2002年3月 鹿児島地裁、再審開始決定(※1回目)
しかし検察が即時抗告
2004年12月 福岡高裁宮崎支部、検察の即時抗告を受け再審開始決定を取消
2006年1月 最高裁も福岡高裁宮崎支部の取消を支持、再審開始ならず
〈第2次再審〉
2010年8月 第2次再審請求
2013年3月 鹿児島地裁、再審請求を棄却
2015年2月 最高裁、棄却
〈第3次再審〉
2015年7月 第3次再審請求
2017年6月 鹿児島地裁、再審開始決定(※2回目)
しかし検察が即時抗告
2018年3月 福岡高裁宮崎支部、検察の即時抗告を退け再審開始決定を支持(※3回目)
しかし検察は最高裁に特別抗告、現在は最高裁で再審開始を闘っている
〈事件については下記リンク参照〉
【40】大崎事件、再審開始決定!だが喜ぶのはまだ早い - Free大助!
■検察はやってはならないことをやった
再審制度は「請求手続」(裁判所が再審開始決定を出すまで)と「公判手続」(公判を開いて無罪を決めるまで)という2つの段階からなり、これが多くの問題を生んでいます。実際に無罪を言い渡されるのは2段階目で、1段階目で検察が公判手続に進むことを頑として認めないという、ヒドい対応をしています。
大崎事件については鹿児島地裁の再審開始決定を受けて、刑法学者が声明を出しています(2017年6月)。その一部を紹介します。
“何より、請求人は90歳という高齢にあり、しかも心身の健康が危ぶまれる状態に置かれているところ、仮に即時抗告がなされて開始決定が確定するまでに更に年数を要することとなるのは人道的見地から決して許されるものではありません。”
本当にその通りだと思います。ところがこの声明が出された後、検察は即時抗告を行い、公判手続に行かせないというやり方を取った。絶対に許されない。
この即時抗告に対して、福岡高裁宮崎支部も再審をやるべきという判断を下した。これは良い判断だったと思います。重要なのは高裁としてはじめて大崎事件の再審開始を決定しただけでなく、判断の期間が短かったこと。アヤ子さんの年齢も鑑みて8ヵ月半という異例の早さで結論を出しました。存命中に公判の場で無罪の言渡しを聞いてもらわなければならないという、裁判所の役割を自覚したふるまいだったと思います。ところがここでも検察は、最高裁へ特別抗告を行いました。
検察はやってはならないことをやった。もし異論があるなら、公判手続の場で堂々と主張すればいい。にもかかわらず即時抗告や特別抗告といった手続きを濫用している。これは本当に許し難いことです。犯人とされた4人は人生をズダズダにされました。アヤ子さん以外の3人のうち2人は自ら命を絶ち、1人は病に倒れ、殺人犯という汚名を追ったまま亡くなられた。あとはアヤ子さんしか残っていない。それなのに検察は審理を先延ばししようとしている。
私は法務委員会でも、大崎事件について怒りに震えながら質問しました。人道上許されない!と迫ったわけです。ところが上川法務大臣は “個別具体的な事件の検察の活動にかかわることなので、法務大臣として所感を述べることは差し控える” という冷たい答弁でありました。これは個別事件で済まされない、再審制度そのものを揺るがしかねない問題です。
繰り返しになりますが、再審は確定した判決を新しい証拠に基づいて吟味するという重い手続きです。だからこそ警察、検察、裁判所それぞれが役割をしっかり果たさなければならない。なのに検察は審査に入らせようとしない。自らの誤りを正さず、真実を隠そうとしている。検察は公益の代表者として振る舞うことが求められているのに、抗告はそれに値しない卑劣な行為だと思います。
ここでまた、過去の衆議院法務委員会・再審制度小委員会の議事録(1963年3月)から、『アジア極東犯罪防止研究所』の安倍治夫さんの発言を紹介します。
“再審制度は実態的真実のために法的安定性を犠牲にする非常救済手続きであるから、これを運用するにあたっては慎重を旨とし、いやしくも濫用にわたってはならないことは言うまでもない。〜中略〜しかしその反面、法的安定性を強調するあまり、再審の条件をいたずらに厳格かつ形式的に解し、国民に対して事実上再審の道を閉ざすようなことがあってはならないこともまた多言を要しない。もし司法の職にあるものが安易な形式主義に流れ、再審制度の本質を無視して、機械的に再審を拒むようなことがあるとするならば、再審制度の存在意義はたちまちにして失われるであろう。”
現在の検察の態度は、まさに再審制度の存在意義を失わせるものです。アヤ子さんと弁護団は、検察の抗告権の濫用によって日本国憲法37条が保証する迅速な裁判を受ける権威を侵害するとして国家賠償を起こそうとしています。当然だと思います。
■検察の抗告を禁止する制度を
現行の「刑事訴訟法」には再審制度の規定がありますが、条文はわずか19条。きわめて大雑把な規定しかなく、個々の裁判所の解釈に委ねられてしまっているのが実態です。大崎事件における福岡高裁のようにしっかり訴訟指揮権を果たす裁判所もあれば、一向に役割を果たそうとしない裁判所もあります。それを可能にしてしまっているのが現状の「刑事訴訟法」であり、いわゆる『再審格差』が生まれる原因になっていると、日弁連は指摘しています。
やはり最大の問題点は、検察の抗告を許していることです。多くの冤罪事件で “無実を証明する証拠はない” とウソを言っておきながら、即時抗告や特別抗告をしている。自分たちが証拠を隠してきた不正義には一切の謝罪も反省もせず、条文にある抗告権だけは実行してくる。こんなことが許されるのでしょうか。
日本が手本にしたドイツの刑事訴訟法では、検察の抗告権が廃止されています。事実認定を争いたければ公判手続でやればいいからという理由で、日本もこういう方向に進むべきだと思います。国会でも直ちに再審を開いて黒白を決するのが妥当であるという意見や、検察の抗告権は現行の刑事訴訟法で追加され、旧刑訴法よりも再審の門戸を狭くしているという指摘も出ています。やはり抗告権の禁止が必要です。
そして多くの方が指摘されるのが、証拠開示の問題です。多くの国民は検察も裁判所もちゃんと証拠を調べていると思っていますが、検察は有罪にするための証拠しか出さないというのが、多くの冤罪事件における実態と言わざるを得ません。そして再審請求の段階になって “まだ裁判に提出されていない証拠を検察は持っているはずだ” と、弁護団や支援者が開示を求めても、検察は頑として出そうとしない。
大崎事件の第2次再審請求では “無実を証明する証拠はもはや存在しない見込みである” 、“庁舎をひっくり返して探しても出てこなかった” とまで言っておきながら、第3次請求で弁護団が粘り強く開示を求めたら、60数点ものネガフィルムが新たに出してきました。これが重要な新証拠として、再審開始決定を後押ししたのです。もっと早い段階で出ていたら、結果が大きく変わっていたでしょう。
国会では森友問題や加計問題で政府が公文書を廃棄したとか、存在しないと言った文書が実はあった…といったことが問題になっていますが、司法の世界では以前から繰り返し行われてきたんです。
〈次回に続く〉
憤りとともに、再審制度の改革を訴える藤野保史議員。
【80】本の紹介『不当逮捕』築地警察交通取締りの罠
■突然の逮捕!その時どうする?
冤罪は遠い世界の出来事でなく、日常の中で誰の身にでも起こる…。
もし自分がそうなったら、どう行動するのか?
泣き寝入りするのか、声を上げて闘うのか?
ある日突然冤罪に巻き込まれ、その不条理と闘った男性の体験を綴った『不当逮捕 築地警察交通取締りの罠』(林克明・著/同時代社)は、そんなことを深く考えさせられる1冊です。
▼こちらからご購入いただけます▼
本著の主役は、都内で寿司店を経営する二本松進さん。2007年10月11日の朝、仕入れで通い慣れた築地市場の路上で、“駐車違反をした、しない” で婦人警官と口論になりました。
そして何と…逆上した婦警は “暴行を受けている!” とウソの通報。二本松さんは駆けつけた約20人もの警察官に囲まれ、手錠をかけられて逮捕され、築地警察署に19日間も拘留されたのです。
取り調べでは婦警に暴力を振るったという、全くのデッチ上げの罪を認めるよう迫られ、認めないと寿司店が潰れるぞ!という、脅迫的な言葉も投げかけられました。
結局起訴されなかったため、被告人として裁判にかけられるのは避けられました。しかし義憤に駆られた二本松さんは、警察の責任を追求すべく国家賠償訴訟を起こします。そして足掛け10年にわたる闘いの末、全面勝訴とならなかったものの、一部警察の責任を認めた判決を勝ち取ります。
部分的とはいえ、警察相手に勝利を勝ち取るのは異例中の異例。
闘いの軌跡がどのようなものであったのかは、ぜひ1冊購入して読んでください!
もし皆さんが冤罪に巻き込まれた時、この本を読んで少しでも予備知識を持っていれば、動揺せず有効な防御策が打てるかもしれません。
■“どうせダメだ!”とあきらめず、とにかく闘ってみる
10月20日には出版記念パーティが行われ、それに先立ち二本松さん自らが現場となった路上を案内してくれました。
マイクを片手に、婦警とのやり取りを説明する二本松さん。警察のあまりのデタラメぶりに、20名以上の参加者からは笑いがあふれました。終始和やかな雰囲気だったのも、やはり国賠に勝利できたからでしょう。
勝てたのは単に運が良かったからではなく、二本松さんの不撓不屈の精神が呼び寄せたものです。
最初、二本松さんは自分で訴状を書き、1人で国賠を起こしました。法律の知識が豊富なわけでもなく、もちろん裁判の経験だってゼロ。そんな状況で1人立ち上がるのは、本当に大変だったでしょう。弁護士が付いて支援の環が広がるのは、少し後のことです。
婦警や逮捕・取り調べをした刑事の肩書きを今一度確認するため、名刺をもらおうと自ら築地警察署に足も運びました。これに対応した警察も素晴らしい(笑)ですが、単身警察署に乗り込んだ二本松さんの行動力に、ただ脱帽です。
そして一貫して二本松さんに寄り添い、共に闘った奥様・月恵さんの存在なくして、この物語は語れません。繰り返しになりますが、ぜひご購入の上、お読みください!
一番いけないのは “どうせダメだろう” と最初からあきらめてしまうこと。
許せないと思ったら、とにかく声を上げてみる。ナリフリ構わず行動してみることが大切なんだと、二本松さんの本から改めて教えられた気がします。
もちろん「北陵クリニック事件」守大助さんの再審無罪を勝ち取る闘いも、“どうせダメだろう” なんてこれっぽちも思っていません。
築地市場の現場を案内する、二本松進さん。