Free大助!ノーモア冤罪!

「北陵クリニック事件・無実の守大助さんを守る東京の会」事務局長の備忘録〜素人の素朴な目線から冤罪を考える〜

【21】想いをともに!「国民救援会・東京都本部」大会に参加して

昨日10月1日は「守大助さん東京の会」の母体である人権団体、

日本国民救援会・東京都本部」の大会でした。

同大会は年1回開催され、

大会プログラムの中には

さまざまな冤罪事件や弾圧事件の関係者が、

裁判の状況を語ったり、

支援強化を訴える時間が設けられています。

 

「守大助さん東京の会」も、

毎年そこに参加してきました。

これまでの訴えは、

事務局長の私が行ってきましたが、

今回はじめて一緒に活動しているIさんが壇上に立ち、

事件の概要、大助さんが無実である理由、再審にかける想いなど、

とても分かりやすく、熱い想いとともに訴えてくれました。

 

 Iさんは旅客機の整備士として、空の安全・安心を守ってきました。

しかし親会社による会社潰しと不当解雇によって職を失い、

解雇撤回を求めて裁判を闘ってきました。

結局、この裁判は負けてしまいますが、

“自分は今までいろいろな人に支えられてきた。

今度は自分が支える側に”と、

現在は新しい仕事に就きながら、

守大助さんの支援活動に取り組んでいます。

想いを共にする仲間の存在は、とても心強いものです。

Iさんのような存在を一人でも多く作ることは、

守大助さんの自由を勝ち取るカギになります。

 

世の中的には冤罪事件の支援というのは、

まだまだマイナーです。

“何故、犯人かもしれない奴の支援なんかするの?”という声も、

よく聞きます。

こういうことを言う人は、

“警察が逮捕し、検察が起訴し、裁判所が有罪にしたのだから間違いない”

という幻想にしがみついているに過ぎません。

この常識の壁をどうやって乗り越え、

世の中に共感の環を広げていくか……、

「東京の会」はチャレンジを続けます。

 

 Iさんをはじめ会場の様子を撮ったのですが、写った皆さんの承諾を忘れたため写真ナシでお届けします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【20】これは言わずにいられない〜徳島県警の誤認逮捕〜

気が付けば、1ヵ月近く更新が滞っていました。

ブログは何よりも続けるのがタイヘン…

というのを身にしみて感じています。

“いい記事を書かなきゃ!”という気負いも、

更新を滞らせた原因なので、

これからは少し気軽に(もちろん真剣に)

日頃の支援活動の中で思ったことを綴っていきます。

 

一昨日に報道された徳島県警の誤認逮捕。

コンサートのチケット転売にからむ詐欺で、

真犯人の少女がなりすました女性を、

19日間も拘留したというものです。

この間 “お前がやったんだろう!” と、

ひたすら自白を強要する取調べが行われたことでしょう。

女性は本当によく否認を貫いたと思います。

 

この女性の口座にお金が降り込まれたことが、

警察が疑いを持った発端だったようですが、

“詐欺がわざわざ自分の口座にお金を振り込ませるだろうか?”

というそもそもな疑問を、

どの捜査員も持たなかったのでしょうか?

 

 一度 “こいつがアヤしい” と思い込んだら、

ひたすら取調室に監禁して自白を強要し、

証拠をデッチ上げてでも犯人に仕立て上げようとする。

それが警察という組織。

守大助さんのケースもまったく同じです。

大助さんの時も患者さんのカルテを調べ、

担当医から聞き取りを行えば、

筋弛緩剤による凶悪犯罪などでないことは、

すぐにわかったはずです。

しかし宮城県警は法医学者の

“筋弛緩剤が使われた犯行の疑いがある”

という情報提供を鵜呑みにし、

“守大助がアヤしい”という思い込みだけで、

基本的な裏付け捜査も行わずに逮捕しました。

以前にも書きましたが、

県警がカルテを押収したのは逮捕の10日後でした…。 

 

思い込みがいかに恐ろしいモノで、

冤罪の温床になっているかについては、

以前このブログでも紹介しました。

 

 

残念ながら日本の警察には冤罪を防止するどころか、

とにかく自白させれば良いという文化が、

(とても文化と呼べるシロモノではありませんが)

いまだに蔓延しているようです。

たとえば愛媛県警の「被疑者取調べ要項」。

10年ほど前に同県警のパソコンから誤って流出し、

各地の弁護士会などから大変な非難を受けました。

 

13項目ある内容を一部抜粋すると…。

◆粘りと執念を持って「絶対に落とす」という気迫が必要。

 調べ官の「絶対に落とす」という、自信と信念に満ちた気迫が必要である。

◆調べ室に入ったら自供させるまで出るな

 被疑者の言うことが正しいのではないかという疑問を持ったり、

 調べが行き詰まると逃げたくなるが、その時に取調べ室から出たら負けである。

◆被疑者は、できる限り調べ室に出せ

 否認被疑者は朝から晩まで調べ室に出して調べよ。

 (被疑者を弱らせる意味もある

 

どうでしょうか?

原文そのままに引用・紹介しました。

本当に冗談ではなく、

“被疑者を弱らせる意味もある”、ハッキリ書かれています。

この要項はベテラン捜査官が、

警察学校での講義のために作成したものだそう。

こんな教育を受けて犯罪捜査の現場に出れば、

一体どんなことになるでしょうか…?

 

 

こんなオカしな警察の在り方を正すには、

まず私たち市民が声を上げること。

守大助さんの再審無罪を勝ち取ることは、

日本の刑事司法を変える運動でもあります。

 

これが愛媛県警の「被疑者取調べ要項」。ネットで検索したら出てきました。

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【19】自分は何故、冤罪支援をするのか?

今回は私がどうして守大助さん、

ひいては冤罪の支援にかかわるようになったのか?

を書いてみたいと思います。

世の中には “何でそんなコトしてるの?” と、

奇異の目で見る向きも少なくないので、

パーソナルなことではありますが、紹介しましょう。

 (冤罪支援の定義は、このブログの【2】を参照)

 

ハッキリしたきっかけは、私自身も覚えていません。

ただ物心付いた頃には、

“濡れ衣を着せられることって、イヤなことだろうなあ”

という感覚を持っていたように思います。

それが決定的になったのは、

小学5年生の時(1980年)に観た1本のドラマでした。

タイトルは『帝銀事件 大量殺人 獄中32年の死刑囚』テレビ朝日

戦後最大の冤罪事件のひとつに数えられる「帝銀事件」を、

綿密に再現した2時間ドラマです。

(この事件については、またの機会に紹介したいと思います)

そこで田中邦衛が演じる鬼刑事が、

取調室で平沢貞通さん(演:中谷昇)に拷問を加え、

自白を迫るシーンに大変な戦慄と憤りを覚えました。

それから7年後、私がちょうど大学生になった年に、

平沢さんはついに再審無罪がかなうことなく、

八王子医療刑務所で獄死しました。95歳でした。

司法権力とは、一体何なんだ!”

言葉にならない衝撃と怒りで身震いする想いでした。

 

10代の私はマスメディアにも、強い不信感を抱きました。

警察に逮捕された時点で容疑者を呼び捨てにし、

(○○容疑者と付けるようになったのは、1989年からでした)

冤罪の可能性だってあるのに、

あたかも極悪人のように報道する姿勢に、

嫌悪感を覚えました。

1980年代ぐらいまでは、

“否認しているので警察は全面自供に追い込む方針です”

なんていう報道も平然となされていました。

 

しかし私は弁護士を志すわけでもなく、

冤罪に関心を払いつつも普通に社会人になり、

何もしない日々が10年以上続きました。

最初に就職した出版社では、

代用監獄や冤罪の企画を出したものの、

“売れない”と却下されもしました。

 

そんな時に報道で知ったのが、

大助さんの「北陵クリニック事件」でした。

一人の青年を “恐怖の点滴殺人魔” と決めつけた、

センセーショナルな報道には、

薄気味悪さと嫌悪感を覚えました。

 

“この人、もしかして無実じゃないのか?”

と直感的に思っていたところ、

ザ・スクープテレビ朝日や『週刊ポスト小学館など、

冤罪の可能性を冷静に検証するメディアも現れました。

 

ちょうど2000年代の前半は、

痴漢冤罪が社会問題として顕在化した時期でもありました。

何も悪い事をしていないサラリーマンが、

ある日突然 “犯罪者” にデッチ上げられる…。

冤罪は電車の中という身近な空間に存在し、

自分にだって無関係の出来事ではない。

これは何か行動せねばならない!と、

再認識させられました。

 

そしてたまたま縁あって入会したのが、

冤罪支援などを行う人権団体「日本国民救援会」。

 (このブログの【5】参照)

すると何と、気になっていた大助さんの事件も、

支援しているというではありませんか。

2012年の秋には千葉刑務所を訪れ、

初めて大助さんに面会をしました。

そして同じ志を持った活動仲間から、

「東京の会」を立ち上げようと誘われ、

二つ返事で事務局長を引き受け、現在に至ります。

 

大体、以上のような経緯です。

繰り返しになりますが、冤罪は決してヒトゴトではありません。

いつ自分自身、または大切な誰かが巻き込まれるかもしれません。

警察、検察、裁判所(最近は良い判決も見られますが)に自浄作用を期待するのは、

現状ではムズカしいようです。

私たち生活者が、声を上げて何とかしていくしかありません。

刑事司法の専門知識においては、

弁護士などのプロにはかなわないでしょう。

しかしそれは、少しずつ勉強して知識を付ければ良いことです。

大切なのは “人として、こんなこと許していいの?” という、

“司法の素人” ならではの素朴な感覚ではないでしょうか。

 

帝銀事件は来年で発生から70年。昨年には第20次再審請求がなされた。

心理学的な見地からポイントをまとめた書籍『もうひとつの帝銀事件』(講談社)も発売。

著者の浜田寿美男さんは刑事司法と心理学の第一人者。守大助さんの再審請求で意見書も書いている。

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【18】守大助さんに面会してきました(後編)

アクリル板の向こう側に現れた守大助さん。

右手を上げて、陽気な笑顔で迎えてくれます。

前回(昨年5月)面会したとき、

「自分にとって支援者と会えるのは、本当に貴重な時間です。

 面会の間は笑顔でいたい」と言っていたのを思い出しました。

前回はグレーの作業着でしたが、

今回は青いジャージのような上着に膝丈のズボン。

体育の授業の学生さんみたいです。

(夏服なのか刑務作業の服なのか、訊くの忘れました)

“学生”というのは決してオーバーな表現でなく、

46歳の現在も29歳で逮捕される前の写真と、

ほとんど変わらない印象です。

裏を返せばずっと社会から隔離され、

時間を奪われている証かもしれません…。

 

大助さんは昨年の10月から、炊事班で働いています。

長年従事したオーダーメイド紳士靴工場からの配転でした。

約1000人分の収容者にお茶を配ったり、

とにかく汗だくの毎日ということです。

「炊事班は体力勝負ということもあり、

 20代の若い受刑者が選ばれます。

 40代の自分が何故…?と思いました」

静かな空間で一人靴づくりに向き合う以前の環境から一転、

チームワークの中で作業を覚えるのが大変で、

歳下の受刑者から注意を受けることも多く、

苦労が続く毎日だといいます。

「それでも耐えられるのは、オレは無実だから絶対にここから出る!

 という信念があるからです」と、力強く語ってくれました。

 

大助さんが何故、炊事班になったのか?

一枚の皮から靴を作り上げるスキルは、

かなりのレベルに達していたと聞いたことがあります。

にもかかわらず何故…?

ハッキリした理由はわかりません。

しかしそもそも、点滴に筋弛緩剤を混入するような人に、

大切な食べ物を扱う刑務作業を任せるでしょうか?

調理では包丁も扱うため、

信頼された受刑者しか選ばれないと聞いたことがあります。

もしかすると刑務所サイドも、

大助さんの無実を信じているのかも…

というのは私の妄想ですが、そうであって欲しいものです。

 

「とにかく一刻も早く、ここから出して欲しい。

 自分は逃げも隠れもせず、再審裁判を闘うから。

 “いつか出られる”じゃあダメなんです。

 (無期懲役で仮釈放になるのは、一般的に約30年と言われています)

 何としても両親が元気なうちに、40代のうちに出たい」

と、大助さんは繰り返し語ります。

そして「裁判所は検察の言いなりにならず、

しっかり証拠調べをして公正な判断をして、

速やかに再審を開始して欲しい」とも。

 極めて真っ当な想いです。

この事件で警察、検察、裁判所がやったことは、

とても“捜査、起訴、裁判”と呼べる代物ではありませんでした。

(このブログの【7】【8】参照)

自分が無実なのは、大助さん自身が一番わかっているでしょう。

にもかかわらずズサンなブラック司法によって、

今まさにこの瞬間も、貴重な時間を奪われている…。

“いついつで終わるから、もう少し頑張ろう”

という見通しがない中で過ごす毎日がどれだけ過酷なものか、

私にはまったく想像が付きません。

「千葉刑務所に来た2008年は、北京オリンピックの年でした。

 “短期留学”だったつもりが、すっかり長期化してしまいました」

と言われた時は、失われた時間の長さにハッとしました。

あれから「ロンドン」「リオデジャネイロ」と、

2度もの夏期オリンピックが開催されています。

2020年の「東京」は絶対に塀の外で!

 

 あっという間に面会時間の30分が終了。

「自分は元気ですからと(支援者の)皆さんに伝えてください」

「ではまた」と、アクリル板にハイタッチをして、

大助さんは扉の向こうに消えていきました。

刑務所を出ると、外は青い夏空。

たった今、面会してきたのは幻だったのか…

という不思議な気分になります。

まさに娑婆に帰ってきたという感覚です。

 

もし大助さんの身に起きたことが自分自身、

または大切な誰かの身に起きたら…?

冤罪は決してヒトゴトじゃありません。

大助さんの再審無罪を勝ち取ることは、

私たち自身で日本の司法を健全にしていくこと。

引き続き「東京の会」は闘います。

 

逮捕前、20代の大助さん。髪の毛が短くなった以外は今もこんな感じです。 

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【17】守大助さんに面会してきました(前編)

阿部弁護士のお話の途中ですが、

8月7日に守大助さんに面会をしてきたので、

その時の様子を2回に分けて報告します。

 

大助さんは無期懲役が確定した2008年7月、

千葉刑務所に収監されて9年になります。

同刑務所は全国に67ヵ所ある刑務所のうち、

初犯で刑期8年以上の男性受刑者を収容します。

ほかには岡山刑務所が同じ条件になっています。

ちなみによく名前を聞く「網走」や「府中」は再犯、

つまり2回目以上の受刑者が入ります。

どの刑務所に入るかは、

事件のあった地域で決まるわけではないのです。

 

千葉刑務所があるのは、

JR千葉駅からバスで15分程度の住宅地。

風格あるレンガの門は 1907(明治40)年に建てられました。

敷地内は撮影禁止。スマホを出すと警備員さんが飛んできます。

なので外の道路から撮った写真を下にアップしておきます。

入ってすぐの事務所で面会の目的を記入し、

身分を証明するものを提示したらレンガの門の中へ。

私にとって4回目の面会でしたが、

手続きは毎回スムーズに進みます。

これは支援組織「日本国民救援会このブログの【5】参照が、

 刑務所と信頼関係を築いてきた成果と思われます。

一方で誰でもすぐ面会できるわけでなく、

大助さんに手紙を出していることなどが条件となります。

受刑者との関係がハッキリしない人を、

安易に面会させるわけにいかないということでしょう。

仕方ありません。

 

門をくぐってロッカーに持ち物を預け、

ペンと紙だけを取り出したら、平屋建ての面会棟へ。

(筆記用具以外の持ち込みは禁止されています)

20分ほど待つと守衛さんから「どうぞ」と、

5つ並んだ面会室の一つに通されます。

畳2枚ぐらいのスペースの、

アクリル板で仕切られた向こう側の扉が開いて、

大助さんがやって来ました。

面会時間は30分。

横には刑務所の職員さんが立ち会います。

(とは言っても、会話に口出しすることはありません)

 

〜後編に続く〜

 

中央が築110年の門。面会受付所はその手前。

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【16】阿部泰雄弁護士のお話② こうして大助さんは“犯人”にされた

前回に引き続き「東京の会総会」での阿部泰雄弁護士のお話です。

第2回目は、大助さんが逮捕された経緯。

このブログで過去に紹介した内容と一部重複しますが、

阿部弁護士から、より詳細に聞くことができました。

どうぞ、お読みください!

※文章は録音を基に再構成したものです。文責は「東京の会」事務局長の私にあります。

 

◆発端は小学生の患者さんの急変

2000年10月、

小学6年生の女の子がお母さんに連れられて、

北陵クリニックの小児科を受診しました。

激しい腹痛を起こし、嘔吐も繰り返したということです。

副院長の半田郁子先生は盲腸かもしれないので入院しなさいと。

それで吐き気止めを点滴で投与するよう指示を受けたのが、

准看護士の守大助さんでした。

そして点滴が始まって5分ぐらいすると、

女の子が“モノが二重に見える”と言い出して、

ろれつが回らない状態になりました。

夕方6時50分頃には意識がなくなり痙攣を起こし、

7時15分頃には心肺停止に。

救急隊員が駆けつけて心臓マッサージを施し、

蘇生させて仙台市立病院に搬送しました。

腹痛と嘔吐、モノが二重に見える、痙攣、

そして脳梗塞のような症状の急変…。

これは後にミトコンドリア病メラスという難病の、

典型的な症状であることが明らかになるわけですが、

(このポイントは再審請求の柱にもなっています)

当時はほとんど知られていない病気だったため、

半田先生は“神経障害と考えられる”とカルテに記しました。

 

◆法医学教授が“筋弛緩剤かも”と警察へ

仙台市立病院でも急変の原因が分からないまま、1ヵ月が過ぎました。

そこでクリニックの実質的経営者である、

東北大学の半田康延教授(郁子先生の旦那さん)が、

 同僚の法医学教授に相談するわけです。

法医学教授は“筋弛緩剤”による犯行を疑いました。

これは1990年代に大阪愛犬家連続殺人事件というのがあって、

サクシン」という筋弛緩剤が使われたとされています。

この事件がセンセーショナルに報道されていたため、

“筋弛緩剤”を連想したのでしょう。

そこで法医学教授は宮城県警本部に行って、

「北陵クリニックを捜査してくれ。

 筋弛緩剤を使った犯罪が行われた恐れがある」と言うわけです。

これを受けた県警はすぐに特殊犯罪の捜査チームを立ち上げます。

警察は“筋弛緩剤による犯罪”と最初から決めつけ、

まっしぐらに捜査に取りかかってしまったわけです。

 

〜今回は以上です。

 

守大助さんの再審無罪獲得に向け、16年間の闘いを振り返る阿部康雄弁護士(右)。

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【15】阿部泰雄弁護士のお話① “マインドコントロール”されていた大助さん

7月15日の「東京の会総会」では、阿部泰雄(あべやすお)弁護団長を招きました。阿部弁護士は、守大助さんの逮捕直後から16年間ずっと弁護を担当し、再審無罪獲得に向けて奮闘しています。

これまでの闘い、冤罪のポイント、再審への展望など、いろいろなお話を聞けたので、

何回かに分けて紹介します。第1回目は、大助さんとの出会いについてです。

どうぞ、お読みください!

※文章は録音を基に再構成したものです。文責は「東京の会」事務局長の私にあります。

 ◆オレはやっぱりやっていないんだ…

はじめて守大助君(以下 守君)に会ったのは、逮捕から2日後の2001年1月8日。拘留されている宮城県警・泉警察署で接見しました。守君はほとんど眠れていない様子で、“自分が(犯行を)やりました”と言っていました。

 翌9日も接見して、“やったなら、どんなふうに筋弛緩剤を入れたんだ?”と質問をしても、守君はほとんど具体的に答えられない。

 こうして会話を重ねるうちに“ああ、オレはやっぱりやっていないんだ…”と。守君はマインドコントロールから覚めて、そこからは完全に否認に転じたんです。

 ◆100日間、土日も警察署へ

5件の犯行を行ったということで1件につき20日×5件で計100日間、警察は守君の身柄を拘留しました。さらに凶悪事件ということで接見禁止にし、弁護士以外とは家族とも会えない状況に置きました。

この最初の100日間、私たち弁護団は毎日、土日も関係なく守君への接見を続けました。“警察が毎日取り調べをやるのなら、弁護士だって毎日接見してもいいだろう”というわけです。

守君は完全に否認・黙秘を貫き、警察が勝手に作った約60通の調書にも1通もサインしませんでした。

 ◆4年半の接見禁止

守君は起訴され、身柄を仙台拘置所に移されましたが、接見禁止は4年半にわたって続きました。その間も弁護団は接見を繰り返し、社会とのつながりを絶たれた守君に、本を差し入れたりしました。

 

〜今回は以上です。

実は大助さんと阿部弁護士は逮捕直後、共著で本を出しています(下の写真)。

マインドコントロールされてしまうほどの苛烈な取調べの様子が、

生々しく描かれています。現在は絶版ですが中古で購入できます。

あまりのムゴさに最後まで読み切るのは大変な労力が要りますが、

日本の取調べの実態を知るためにも、機会があったらぜひご一読ください。

 

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